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とあるきっかけがあって、不義理をしていた人たちに電話等であいさつをしてきた。過去に一緒にいろいろと活動などをしてきた人たちだ。胸のつかえが取れたようでスッキリした。いや、不義理をしておいてあいさつ回りをしただけでスッキリするのもどうかと自分で思うのだけど、とりあえず一歩が踏み出せた、ということで。また会ってくれるとか、今後の話をまたしてくれるとか、そんな返事ばかりでうれしかった。これから詫び行脚だー!!!!
詫びた先のみなさんは本当にやさしかった。まあ、呆れられているだけだろう、とは思うけど。それでも。もう本当に申し訳ないとしか言いようのないことではあるけど、恩がありながら仇で返し、何もしていない。それにしても電話口で「活躍は聞いていますよ」と言われたんだけど、どんな風に噂が立っているのやら……。仕事の関係みたいだけど。うひー、仕事も力不足で何もできずみんなに助けられてばかりだよー!!
これに限らず、ここのところ本当に私は諸々のことで人に恵まれすぎていると思う。いろんな方に恩がありすぎる。そして、それをまったく返せていない。しかし恩を負債だと考えてしまうと逆に何もできなくなるし、義務感と無力感に押しつぶされそうになる。恩は返せないもの。そう思った方がよい。人への感謝をもって何か返せる機会が得られれば、そこにまた感謝する。そのようにして生きるしかないのだろう。今後は恩は返せずとも不義理はすまいと思う。
不義理は負債であっても恩は負債にしてはならない。自分のような小人物でも感謝されることがある。仕事の関係では特に増えてきた。しかし、そこに何かの恩返しを求めているかといえばそんなわけはない。仕事に至っては、そうであってはならないものだ。むしろ相手が何かの世話などに申し訳ない等と考えているようであれば、「仕事だ」「勝手にやっていることだ」と言う。年下なら「私は先輩に恩を受けてきたから年下のあなたに返した。あなたが恩を返したいと思うなら後輩に対してしてほしい」と言う。実際にそう思っているし、相手がそんな風だとこっちだってやりづらい。なんなら自分の主体性を否定されているようで時に不快ですらある。こうやって考えてみると、あらゆる恩を返さなければならないという義務感に囚われるのは、与える側に回ろうとする傲慢さではないか。かつての自分は間違いなくそうだったと思う。つらつらと思うに、そのような感じ。
彼らと話しながら、自分の過去の未熟さが今ならわかる。本当に未熟だった。彼らに連絡を取った理由のもうひとつは新たなことを始めたい、過去のリスタートをしたいからだ。詫びた相手の一人は「ちょうどリスタートの機会だと自分で思っていた」と話してくれた。まあ、これも天命なのかもしれない。恩が返せるかもしれないし返せないかもしれない。先のことはわからない。
まとまりのない話ではあったが、恩とか仇とかはひとまず置いて、自分の一緒に何かをしたい、そう思えるような人間でありたいなー、と思っている。
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天生萬物以養人 世人猶怨天不仁
不知蝗蠹遍天下 苦盡蒼生盡王臣
人之生矣有貴賤 貴人長為天恩眷
人生富貴總由天 草民之窮由天譴
忽有狂徒夜磨刀 帝星飄搖熒惑高
翻天覆地從今始 殺人何須惜手勞
不忠之人殺
不孝之人殺
不仁之人殺
不義之人殺
不禮不智不信人 大西王曰殺殺殺
我生不為逐鹿來 都門懶築黃金台
狀元百官都如狗 總是刀下觳觫材
傳令麾下四王子 破城不須封刀匕
山頭代天樹此碑 逆天之人立死跪亦死天は万物(よろづ)を生みて以ちて人を養ふも、世の人は猶ほ天の不仁なるを怨みたらん。
知らざらんや蝗は蠹きて天下を遍くし、苦しみの蒼生に盡くさるるは王臣に盡くを。
人の生くるや貴賤有り、貴人(たふとき)は長じて天の恩眷(めぐみ)を為す。
人生の富貴は總べて天に由り、草民の窮しみは天譴に由る。
忽ち狂徒の夜に刀を磨く有らば、帝星は飄搖して熒惑高し。
天に翻り地を覆ひて今從り始めん、人を殺して何ぞ須く手の勞を措かべけんや。
不忠の人、殺すべし。
不孝の人、殺すべし。
不仁の人、殺すべし。
不義の人、殺すべし。
不禮不智不信の人、大西王曰く殺せ殺せ殺せ。
我の生まるるが為は鹿を逐ひて來たるにも、都門の黃金台を築くこと懶みするにもあらじ。
狀元百官都も狗の如し、總べて是の刀の下には觳觫の材。
傳へて麾下の四王子に令(しら)せん、城を破らば須ちて刀匕を封ずるなかれ。
山頭は天樹を此の碑に代え、天に逆するが人は立ちても死すべし、跪きても亦た死しすべし。天は万物を生みたまうことで人を養いたまうも、世の人はまだ天が不仁であると怨む。
知らんのか? 蝗が天下のすべてを食い荒らしている。苦しみが蒼生に尽くされるのは、すべて王と臣下のせいなのだと。
人の生まれには貴賤があり、貴人は長じて天の恩恵を為し、
人の生まれの富貴はすべて天に由来し、草民の窮しみも天罰による。
たちまち夜に刀を磨く狂徒が現れ、帝星が風に揺られて熒惑は高らかに輝く。
さあ、天に翻り地を覆う今こそ始めようではないか! 人を殺す手を休めることはない。
不忠の人、殺すべし!
不孝の人、殺すべし!
不仁の人、殺すべし!
不義の人、殺すべし!
不礼不智不信の人について大西王はいう。殺せ! 殺せ! 殺せ!
私が生まれたのは鹿を追って来る(皇帝になる)ためではない。都門に黄金の台を築いて頼みとするためでもない。
状元(科挙の首席合格者)も百官もすべてまとめて狗のようなもの。すべてこの刀の下には死を恐れて震える食材に過ぎぬ。
麾下の四王子に伝達しよう。「城を破ってからも斬殺することに遠慮はいらん。」
山頭の天樹をこの碑と取り換えよ。逆天の者どもよ、立つ者は死すべし! 跪く者も死すべし!
中華邪気眼の定番中の定番である張献忠! 『屠蜀』と呼ばれる大虐殺によって四川の当時の人口は310万人から2万人弱まで減少したという。この詩文はdiscordでもらったもので張献忠のものとして中国のネットに上げられていたものらしいけど、それ以外にソースがない。なんだそりゃ。とりあえずノリで書き下しつつ訳してみた。いやー、10代後半から20代前半の自分のテンションを文字化したような感じで自分のことじゃないのに読んでて恥ずかしい……。デスメタルかよ。
ちなみに七殺碑は以下の方が有名。
天生萬物與人
人無一物與天
殺殺殺殺殺殺天は萬物(よろづ)を生みて人に與ふも
人は一物も天に與ふこと無し
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ天は万物を生じて人に与えたが、
人は一物たりとも天に与えていない。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。こちらは非常に有名で、ネット上のものじゃなくて前近代から存在する伝承。私もTwitterを始めた当初にも言及していた。ただし実際にこのように記された石碑が存在したかというと怪しいらしい。
この検証も前近代には既に為されており、実際に張献忠が建立した石碑は『聖諭碑』といい、以下のような内容だったとか。
天生萬物與人 人無一物與天 鬼神明明 自思自量
天は萬物を生みて人に與へり 人は一物も天に與ふこと無し 鬼神(かみ)は明明たり 自ら思ひ自ら量るべし
天は万物を生じて人に与えたのに、 人は一物たりとも天に与えていない。 鬼神は明らかに存在しているのだから、 自らによって思索し、自らによって考えよ
というわけで、天と鬼神への篤い信仰を通じて人間の自立を勧める内容。あれ? いいこと言ってんじゃん。初めの二句が七殺碑と伝承と同じであり、後の張献忠の暴虐を受けて、これをオマージュして伝説が出来上がったのかもしれない。
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一週間前から喫煙を再開している。近いうちにやめるつもりではあるけど、いつになるかはわからない。理由は仕事のストレスである。仕事がクソクソクソクソ超超超超いそがしくてつい吸ってしまったらもう虜。バカスカと毎日吸って初日から今日まで一日一箱以上はコンスタントに吸うようになってしまった。そういうこともあって運動と瞑想ができていないので、その場しのぎの代替行為といった感じ……。しかしタバコを吸うとジョギングが苦しくなって再開が難しくなるのですぐやめねばならぬ。
……という風に書きだしていると、じゃあすぐにやめればいいじゃん、という結論に達した。よって今からやめることにする。一人で文章に向き合うというのはよいもので、SNSやTwitter等のソーシャルメディアではこうはならない。みなさんブログはオススメですよ、というお話でした。
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昨晩はTruthSocialで知り合った青年から漢文を読みたいとの申し出があったので、少しだけ教えていた。しょっぱなから「文法を覚えることから始めるのですか?」といった質問があったので面食らってしまう。世間一般ではそういうところから始めるのかもしれないけど、私自身は高校時代の漢文のテストは0点、20歳を超えてから漢籍を読み始め、本格的に原文から漢文を読み始めたのはこの5年、6年程度、その読み方が「中学レベルの知識だけで原文からいきなり読みまくる」だったので、「文法から学ぶ」ということをしていなかった。まず読む。辞書を引く。読めないところをネットで検索する。こうした過程で初めて文法を身に着けていた。なので、その手の「講義」みたいなのが難しい。ただ、彼は読みたい文章(仏典)があったので、それをまず読む形で進めることにした。まあ、そんな感じ。以前から私の漢文に関するツイートやブログの漢文記事はあからさまに反応が薄い。なので漢文に興味を持ってくれる人がいるとうれしい! それにしてもみなさん低俗なネットバトルや政治に関する記事の方がお好きなようで、はーあ、よくわからんですね、世の中というものは。なにがいいんですか、あんなもの。くだらない争いや近視的な時勢のことばかりにかまけていないで、まずは万古不易の常道たる聖賢の教えをひたむきに学ぶことなどみなさんなさった方がよろしい。
ネット以外で知り合った友人とも漢籍に興味を示す人が増え、最近知り合った友人などは、なにやら方々で私の宣伝をしてくれているらしい。出版の紹介とかまで振ってくれるんだけど、うーーーーーーーーーーーーん、出版となると注釈とかちゃんとつけないとダメなので私みたいに読む人間ではなあ……。漢文に読み慣れてくると出版された漢籍の訳書は注釈が本体。その前にもネット上の友達に漢文を教えることになって、その時も私はもちろんうれしくなっちゃって張り切ってレジュメなんぞを切ってしまったわけだから向こうはヒいてしまったかもしれぬ。
まあ漢文とか興味あったら一言言ってもらえればうれしいです。私は褒められて伸びるかはわかりませんが褒められると喜びます。読みたいけど読めない漢文などあればお気軽に。めったにないシチュエーションだろうけど。
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というわけで、昨日はブログを更新し損ねた。なぜか。仕事が忙しかったから……というのは確かだけど、手抜き更新ならいくらでもできたはずである。要は忘れていたのだ。完全に。
いや、完全にではない。実際には23時過ぎにブログのことを思い出して急いで書こうと思ったんだけど、出先でパソコンがない。そこでスマホで書こうとしたが多動ゆえの充電忘れにより書いてる途中であえなく充電切れ。しかもすぐに電車に乗らなければならない状況。チェックメイトである。
しかし東夷の倭人は諦めない。特急便に乗ればコンセントの差込口がある。そこで手持ちの充電アダプタを用いればブログが書ける! 一文字でもいい! なんとかして書く! ……と、実は最後の最後まであきらめなかった。
ところが、どれだけ探してもスマホ用の充電コードがない。思い出してみると、そういえば出発前にパソコンに挿してそのままだった。またも多動の発揮。こうして終電の中で0時をまたいでしまったわけである。
まあ、どう言い訳しようと更新できなかったのは間違いないわけで、これはもうどうしようもない。仕方ないと諦めるしかないのである。諦めとは解放だ。私は焦燥から解放されて眠りに落ち、そして電車を乗り過ごして20分以上歩くハメになった。そんな日もある。
というわけで、ここに毎日更新の野心は破綻したわけであるが、ここから東夷の倭人はじゃあどうすればいいのか。
また始めればいい。それだけのことである。なので今日からまた毎日ブログ更新をする。